【考察】「内需国だから大丈夫」は誰のための幻想か?――日本官僚社会における“正当化ロジック”の構造
■ はじめに:その“常識”、本当に国全体のものですか?
「日本は内需国家だから外需に頼らずとも大丈夫」——
一見もっともらしく聞こえるこの言葉は、実際には国民の総意でもなければ、現代経済の現実を反映した戦略でもない。
むしろこれは、一部の政策形成層、特に官僚組織が自己保身や制度維持のために使ってきた“都合のよい正当化装置”にすぎない。
そして、それが長年機能してしまったのは、政治や経済に対して距離を置いてきた国民の一部の無関心も、背景として作用していた可能性がある。
本稿では、この「内需神話」がどのように形成・利用され、なぜ今なお温存され続けているのか、その構造を深く掘り下げる。
■ 1. 官僚のロジック:「内需」は経済戦略ではなく“制度防衛の道具”
● 成功体験の“再利用”による思考停止
戦後の高度経済成長は、確かに内需主導でも実現された。それゆえに、官僚たちはこの成功体験を「唯一の正解」として記憶し続けてきた。
しかしそれは過去の文脈における話であり、現代の経済構造とは乖離している。
それでもなお「内需があるから大丈夫」と語られるのは、変化を避け、制度とポジションを守りたい層によって“再利用”されてきた言葉だからだ。
■ 2. 利用される幻想:「内需神話」は誰にとって都合が良いのか?
- 財政政策を縮小したい財務官僚にとって、「内需回復中」と言えば大きな予算編成を避けられる
- 年金・医療制度を抜本改革したくない厚労省にとって、「高齢者の内需が支える」とすれば現状維持が可能
- 経産官僚にとっては、内需強化の名のもとに旧来産業への資源配分を正当化できる
このように、「内需国」という言葉は、“制度を維持するための防波堤”として多用されてきたのが実情である。
■ 3. 現実との乖離:もはや機能しない“内需中心”という前提
● 内需の実態は「縮小と限界」
日本の人口減少、特に若年層の購買力低下は、内需の持続性に明確な疑問符を突きつけている。
それにもかかわらず、政策的には「内需重視」が前提であり続けるのは、もはや現実逃避と言っていい。
● グローバル経済への対応力の喪失
製造業の空洞化、ITやAI領域での競争力後退、世界的なイノベーション潮流への不参加——
これらはすべて、内需偏重による視野の狭さと変革の遅れが招いた「代償」だ。
■ 4. 幻想の“温床”:黙認されてきた構造
こうした内需幻想が長年続いてきた背景には、官僚組織だけでなく、一部の国民の無関心や、政治・経済に対する距離感も見逃せない。
「どうせ変わらない」「政府に任せておけば…」という諦めや思考停止の空気感が、結果として官僚の正当化ロジックを咎める力を弱めてしまった。
ただしこれは、国民全体を責めるような話ではなく、構造的に“無力感”が植え付けられた一部層の問題として捉えるべきだ。
■ 結論:「内需国だから大丈夫」は、幻想ではなく“免罪符”だった
今の日本において、「内需で支えられる」という前提は、経済的現実というよりも、変化を拒む組織が都合よく使ってきた“免罪符”のようなものだ。
この幻想は、グローバル経済を生き抜くための柔軟性や創造性を奪い、日本の競争力を徐々に削っている。
これから問うべきは、「このロジックは誰のために存在し、誰が黙認し、誰が変えられるのか」という視点である。
【提言記事へ⇒「内需中心国家」実現の鍵は“資本と人材の国内循環”構造にあり】
コメント