国債発行肯定論の落とし穴:予算編成の非合理性が無視される現実
はじめに:国債肯定論の空気感に違和感を持つあなたへ
昨今、SNSや経済系メディアの一部では「国債は問題ない」「自国通貨建てで破綻はしない」という言説が主流になりつつあります。MMT(現代貨幣理論)などに基づくこのような論調に対して、一定の説得力を感じる人も多いでしょう。しかし、そうした「国債肯定論」が一つの重大な視点を意図的または無意識に欠いていることに気づいている人も少なくありません。
それが、「現行の予算編成における資金効率の悪さ、非合理性」です。
この記事では、この見落とされがちな視点に焦点を当て、国債発行をめぐる議論の本質を掘り下げていきます。
国債肯定論の主張とその構造
国債肯定派は、概ね以下のようなロジックを採用します。
- 自国通貨建て国債は通貨発行権がある以上、デフォルトしない
- 政府支出は景気の下支えとして有効
- 税収に縛られるべきではなく、必要な支出は国債で賄うべき
- インフレが起きるまで財政拡大は問題ない
これらの主張は、一見すると「財政に対する新しい見方」として支持されやすい構造を持っています。しかし、ここに大きな欠落があります。
問題の本質:予算の中身が精査されていない
国債発行を問題視しない姿勢が続くと、次のような構造的な問題が放置されやすくなります。
● 非効率な支出の温存
無駄な補助金、利権に偏った公共事業、検証されないバラマキ型政策。
こうした支出の見直しが行われないまま、追加で資金を投入してしまうと、結果として国債は「制度疲労を隠す道具」に成り下がります。
● 政策効果の検証軽視
「お金を配った」「予算をつけた」という事実だけが重視され、その施策が本当に効果を発揮したのかの検証が疎かになります。
● 政治的ポピュリズムの加速
財源が“刷れば出せる”となれば、選挙前に都合の良いバラマキが頻発。政治的に声の大きい層に予算が偏る構造が助長されます。
意識的か?無意識か?二層構造の問題
この状況を生み出している背景には、次のような二層構造があると考えられます。
層 | 特徴 |
---|---|
理論層(経済学者や論者) | 「国債は理論的に問題ない」と真剣に主張するが、行政実務や政治現場の実情を見ていない |
利害層(政治家・業界関係者) | 「都合が良いからあえてその理論を利用する」意識的なポジショントークを展開 |
前者は無意識の理論信奉、後者は意図的な言説操作。結果として、理論的に筋が通っているように見えるが、現実は腐敗の温床というねじれが起こっています。
「財政拡大=善」ではない:必要なのは財政の再設計
本当に必要なのは「財政の量」ではなく「財政の質」です。
- 財政支出がどこに向けられるべきか
- どのように優先順位をつけるべきか
- 費用対効果をどう検証するか
これらをすっ飛ばして「国債は問題ない」という話に終始してしまうと、税金でも国債でも、無意味な使い方になる可能性は大きくなります。
国債擁護が「達が悪い」と感じる理由
あなたが「なんとなく引っかかる」と感じていたその直感は、次のような構造によるものです。
問題領域 | 実態 |
---|---|
財政規律 | 緊張感が失われ、惰性での支出が常態化する |
民主的統制 | 政策の質より、量のアピールが優先されやすい |
透明性 | 予算の使途と成果の可視化がないまま予算が膨らむ |
理論と現実の乖離 | 「理論的に正しい」ことが「現実の行政で有効」とは限らない |
おわりに:本当の問題は「国債」ではなく「その使い道」
国債は単なるツール(道具)にすぎません。
問題なのは、「ツールをどう使うか」の部分が真剣に議論されず、都合よく理論を免罪符にしてしまう構造です。
国債発行を肯定するなら、それに見合った透明性・説明責任・政策効果の検証がセットで必要です。
そこから目を背けたまま「国債は問題ない」と唱える論調が、なぜ“達が悪い”のか。それは、問題の本質から目を逸らさせるからに他なりません。
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