【思考の起点と正しさの階層】感情・事実・構造──相対主義を超えて見えるもの
■ はじめに:「どちらが正しいか」は、本当に決められないのか?
現代ではよく、「正解なんて人それぞれ」「どちらが正しいかは決められない」という言葉が使われる。
それは一見寛容で、成熟した態度に見えるかもしれない。
だが果たして、本当にそうなのだろうか?
この問いに対し、本記事は「思考の起点の違い」という視点から深掘りしていく。
結論から言えば──
“正しさには階層がある”。
そして、それは思考の起点の深さ・構造性によって見えてくる。
■ 相対主義がもたらす“知性の停滞”
「どちらが正しいかは決められない」とする態度は、一見するとフェアで平等だが、
その背後には思考停止や責任回避の傾向もある。
● 相対主義が陥る罠:
- 全ての意見が“等価”であるかのような幻想
- 思考の深度や再現性を軽視
- 判断の基準を曖昧にし、対話の生産性を奪う
認知や論理に階層性がある以上、「同じ価値観」として扱うことは不自然なのだ。
■ 正しさの階層は「思考の起点」で決められる
思考の出発点には、明確なパターンがある。
それは単なる性格ではなく、「認知の階層構造」として存在している。
以下はその代表的な3段階:
【第1層】感情起点の思考
- 「嫌だった」「ムカつく」「なんか違う」など、感情がすべての判断軸
- 短期的な満足や防衛に適しているが、論理や整合性に乏しい
- 共感性には富むが、再現性や応用性は低い
【第2層】事実起点の思考
- 「何が実際に起きたのか?」から考える
- 感情を一時的に切り離し、現実ベースで思考を構築
- ロジックや証拠に重きを置くが、因果や全体構造の認識にはまだ浅い
【第3層】因果構造起点の思考
- 物事を構造や因果の関係性として抽象化・最適化
- 単なる出来事を超えて、「なぜそれが起きたか」「どう再発防止できるか」まで視野に入れる
- 高度な抽象思考が必要だが、最も汎用性が高く長期的な整合性がとれる
■ 「どちらが正しいか」は決められる──構造的に
この階層モデルを用いれば、正しさは単に「主観の違い」ではなく、情報の扱い方の精度と深度の差として判断できる。
● 判断軸の例:
観点 | 感情起点 | 事実起点 | 構造起点 |
---|---|---|---|
再現性 | 低い | 中程度 | 高い |
長期整合性 | 乏しい | 一部対応 | 強い |
汎用性 | 限定的 | 実用的 | 抽象的かつ応用的 |
衝突耐性 | 弱い | まずまず | 高い |
つまり、「どちらが正しいか?」という問いは、“何を基準に置くか”で明確に答えが出せるのだ。
■ 「人それぞれ」は本当に知的な態度か?
もちろん、感情起点が完全に悪というわけではない。
共感・直感・場の空気といった感覚的判断が必要な場面も多い。
だがそれを万能の“正しさ”として扱うことは、極めて非論理的だ。
● 感情起点の正義が支配すると:
- 説明責任が失われる
- 感情に訴える者が優先され、構造的対話が成立しない
- 結果、社会的に“声が大きい者”の論理が勝つ
これが、現在のSNS時代において頻繁に見られる構造だ。
■ 結論:「正しさ」はある──それは“起点の扱い”に宿る
- 感情を起点にするか
- 事実を起点にするか
- 構造・因果を起点にするか
この違いは、思考の出発点という“不可視の階層”によって生まれている。
そしてこの階層差は、対話の噛み合わなさ、誤解、判断のズレに直結する。
● 最後に:
「どちらが正しいか」は、状況によって変わるかもしれない。
だが、どちらがより上位の思考モードかは、極めて明確に存在している。
もしあなたが、“何が正しいか”を考える癖を持ち、
“自分はどの起点から考えているか”を俯瞰できるなら、
それはもう思考の第3層に片足を踏み入れている証拠だ。
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