【リソース分配の深掘りは“タブー”】制度複雑化が生む中間搾取と行政の責任回避構造
■ はじめに:なぜ社会は本質に踏み込めないのか?
人権、多様性、持続可能性――。
これらは確かに重要な社会理念です。だが、それらを語る一方で、社会はなぜ“リソースの現実”に踏み込まないのか?
その理由は明確です。
リソース配分の本質を議論すること自体が、「制度の構造的矛盾」を露呈させてしまうからです。
■ 1. 「リソース配分の正当化装置」と化した制度複雑化
本来、制度設計とは「社会課題を解決するための手段」にすぎないはずです。
しかし現実には、以下のように機能が“ねじれ”ています:
本来の目的 | 現実の構造 |
---|---|
社会問題の解決 | 行政の既存予算と制度枠内での対応 |
公平なリソース配分 | 声の大きさと属性優遇による歪み |
誰もが利用できる簡素な制度 | 条件・書類・認定・中間機関の多層化による複雑化 |
このような制度の複雑化は、見かけ上「公平・透明性の担保」とされがちですが、実態は制度の網の目に“中間業者”が入り込みやすい構造となり、次のような結果を招いています:
- 制度利用には「専門的支援」が必要(行政書士、NPO、支援団体)
- 制度申請プロセス自体が事業化される(研修、書類作成代行、受講商売)
- 結果として、本来のリソースは創出層ではなく“制度支援層”に流れる
■ 2. なぜリソースの深掘りができないのか?
結論から言えば、それは「既存の構造を守る側にとって都合が悪いから」です。
■ 理由1:行政は“予算消化”が第一目的になっている
- 問題を根本解決すると、翌年度の予算要求が難しくなる
- 複雑な制度ほど、「改善のための追加予算」が要求できる
- 予算執行=業績化のため、「場当たり支援」の方が都合がいい
■ 理由2:構造の簡素化=中間団体の“存在意義”を脅かす
- 中間支援者は「制度の専門家」として職能を築いている
- 制度がシンプルになると、支援者・通訳者としての“立場”が失われる
- だから制度は「わかりづらいまま維持される」ことで双方に都合がいい
■ 理由3:国民側も“複雑な構造”を必要としてしまっている
- 補助金、助成金、研修、支援――複雑な制度をうまく使えた者が「得」
- この“攻略ゲーム”として制度を活用する発想が社会に蔓延
- 結果として、「制度批判=自己否定」として忌避される
■ 3. 行政は「制度管理者」だが前例踏襲が文化になり構造改善ができない
行政の本質的な問題はここにあります:
制度を管理する存在である以上、制度そのものの設計思想や存在意義を問い直す必要が有るがリソースの再配置による本来必要不可欠な混乱を恐れ、自発的な社会の合理化ができない、しない。
だから行政は──
- 場当たり的な支援(バウチャー、助成金、短期キャンペーン)
- ポーズとしての意見募集(パブリックコメント、シンポジウム)
- アカウンタビリティ風の「予算実績報告」
…といった“制度の中で可能なこと”しかできず、「構造を壊す視点」は心理的に持つに至らない。
■ 4. 構造改革に必要なのは「制度外知性」と“敵を作る覚悟”
制度の表層ではなくリソース配分の奥にある搾取正当化モデルを見抜く視点は、体制内にはまず存在しません。
だからこそ、構造改革には以下が必要です:
- 制度外部からの構造批判(ジャーナリズム・批評・市民知性)
- 「敵を作ることを恐れない覚悟」(制度依存層からの反発)
- 本質的価値創出層へのリソース再分配(現場主導型設計)
■ 結論:構造を壊せなければ、「正義」は疲弊を生む
人権、支援、福祉、多様性──それらを否定する必要はない。
だが、制度という“構造”が本来の意義を歪め、中間搾取の温床となっている事実から目を背けてはならない。
「正義を守る制度」が、「搾取を正当化する装置」となっている。
リソースの話を深掘りできない社会は、永遠に“応急処置”に終始する。
そして創出の現場は、疲弊し、沈黙し、やがて国は崩壊に至る。
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